今回のテーマは「救い」にしました。

 

こちらにも少し書いたのですが、

 

この続きとなるような部分を書いていきます。

 

支えにはなったが、救いにはならなかった? 私の場合。

有り難い言葉や教え、占い、タイプわけ、特定の宗教ではない自分なりの信仰心は大きな支えにはなった。

有り難い言葉や教えは、宗教の経典に在るとは限らず、ヒントは占いやタイプ分けに在るとも限らず、読んでいた小説や書籍にも助けられてきた。

それぞれはその時その時に私の役に立ってくれた。

 

ヒトから与えられたものではなくて、自分で選んだものの方が支えになった。

 

ヒトから「これは良いものだよ」と与えられたものは、しっくりこなくてかえって混乱するものが多かった。

混乱するのは、いいとこどりの人様の脳内リミックスの教えだった。

「心の治療の真実はどこにあるのか?」について お1人の意見

 

立派な人が言う事だから。

昔からある「教え」だから。

占いで宣言されたから。

有名な宗教家、思想家の言葉だから。

法則だから。

 

わたしにとっては玉石混交であった。

 

玉石混交というのは、振り回された経験があってわかること。

 

しかし、残念ながら、これらでは救われなかった。

かえって混乱を起こして面倒だったが、そういった面倒も内容を一つ一つ考えていくことで雨降って地固まるというように、結果的には良いものになった。

違和感を感じるものは頭に入れる前に、一旦冷蔵庫(脇)へおくという事が習慣づいた。

 

 

美しい言葉というものに救われなかった理由

環境から学んだこと

子供でも知っているような綺麗ごとも、素晴らしい教えも、

私の見える範囲の大人の行いに反映されていないという現実があったので、綺麗ごとも、素晴らしい教えも、幸せを量産しているとはとても思えなかった。

今をとなっては、この違和感がなんだったのか書籍を読んでわかった。

 

情報だけでは幸せを感じる事はできないのだな。と感じていたようだし、

条件は恵まれているのに、幸せにしている人が少ないもんだな。とも思った。

 

その次に思ったのは、

当たり前のことを知り、言う立場になっても幸せにつながらないのは、大切な事を考えていないからだろうか?と候補が出てきて、長い間、思考力を大きな価値観と思うようになった。

私も書を捨て街に出た時期がきても、やっぱり考えることの大切さを温めていた。

ところが最近はその大切にしていた「思考力」と思っていたものの多くが雑念だったということが発覚。(笑)

人間生きていると知らなかったことを知る楽しい機会に恵まれるものである。

 

 

これは私にとっては良い感性だった

私は1年?2年?前にすでにこの本を読んでいた。これもまた、皆が「良いモノ」として捉えていた情報である。(画像とタイトルにはAmazonのリンクが貼ってあります。詳細はリンク先でご確認ください)

サンデル教授の対話術 ( )

 

私も、教科書をなぞっていく記憶型の勉強よりも、こういった自分で考えてみるという授業を受けたい。

と、まぁこの程度の感想だったが、

 

救いとは何か (筑摩選書)

 

この中に、対談をしているお1人の異議が書かれていた。

考えることと、上のサンデル教授の授業のように議論を楽しむことの違いについてわかりやすく意見が述べられていた。

この問題提起をされている方から見ると、有名なトロッコ理論について

人間の存在が徹底的に抽象化され、5とか10といった数字に還元されてしまっている。ー書籍「救いとは何か」より引用

と表現されていたが、

人間の多面性が見事なくらいはぎ取られてしまっているー書籍「救いとは何か」より引用

とひどく違和感を感じたそうだ。

 

確かに、考えることと、議論を楽しむことは別問題だなと私には良い気づきがあった。

わかりやすいものに飛びつくと、理論の段階を経ておらず、内容がジャンプしてA=Bのような錯覚を起こすということを再確認したような気持になった。

 

しかし、ハーバードだし、人気の授業だし、ということになると、私などは「そんなもんか」と思ってしまうし、考えもせずに「良いモノ」と収めてしまう。ハロー効果という名称や、認知バイアスという情報がいくらあっても、実際にはこんなもんである。

 

私が感銘をうけたのはこの論点ではなかったが、

この方の感じた違和感が、このトロッコ理論や白熱教室というものと綺麗に対比しているのかまでは私には判断できない。論点が綺麗に対比するのか、ズレているのかは各自で考えて欲しい。

自分を棚において、わかったつもりになって悲しんだ時期

大人になったからと言って、理性が自然に育つわけじゃない。

優しさもそう。思いやりもそう。

しかし、情報収集&記憶によって、それらしいことは言える。

 

また、感情には凄い威力があって、人間をも壊さんばかりだな。とも思ったことがある。

 

年齢や立場や収入、学歴、性別などなにも関係ない。

 

私が長年しんどかったのは、目に入る多くの混乱は、本人さえ鍛える気になれば鍛えられる精神性・精神力の問題だと思っていたからです。

それをしないのは、怠惰ではないかと思っていた。

 

人間に期待し過ぎていた。

修行という言葉や意味を知らない方が良かったかも知れない。

勝手にそれを理由にあげていたし、

理想の人間像を、またまた勝手にいろんな人に押し付けていた。

 

そうなると、思い通りの社会じゃないものだから、脱出したくなる。

救い出して欲しい気持ちになった。

救われないのなら、自分が全てを達観して、感情がうごめかないような状態になりたかった。

悟りと言うイメージに救いを求めるとき

 

簡単に言うと、

脳のクセや、認知バイアスの本当の意味の多様性が理解できていなかった。

 

意地悪ではなく、周囲が期待する「思いやり」を示さないことや、「気がつかないこと」がある事や、

意地悪をするヒトの人間性に失望したりするのも、それを人間性だとおもうから腹も立ったのだけど、その後、悪意のヒトだと思っていた当人に新しい記憶がどんどん製造され、私が覚えていることの記憶がないという事例があることに気がついた。

本人が自分のしたことの記憶がない。

 

まるで人形師が操る人形のように、当人の感情の反応のまま悪意的な行動として現れているということにも気がついた。人間性というよりも、もう本能・無意識のままだということ。

 

人間性が原因だと思うと、悪気の有無が気になるけれど、

本能・無意識のままということになるとまた別の話になってくる。

 

もちろん私も意地悪をする側に思われたシーンもあっただろうし、記憶にないこともある。

本物の悪意から故意に意地悪をするヒトだっているが、それでも今現在は、感情のマリオネットのような割合が想像よりも多いんじゃないかと思っている。

 

勘違いされたくないので、違う言葉で書くと「そういう反応を起こしやすい脳のタイプ」「そういう反応を起こす脳の仕組み」ということです。

 

ある意味、

感情には凄い威力があって、人間をも壊さんばかりだな。とも思ったことがある。

と感じたのは正解で、まるで支配されているかのようだし、人間脳が破壊されている瞬間かもしれないし、こればかり続けていると、脳自体も変化しても不思議じゃないなと思っている。

 

感情反応がほとんどの生まれたままの脳に、+ たんなる情報処理脳が加わっただけでは、内面的な成長にはならないんだということも考えた。

 

それには棚に上げていた自分も含まれていた。

自分は違う!という抵抗

私は違うんだ!と思い込みたかったんですよね。

違うから自分がフィットしない環境から脱出したいという一方通行思考です。

 

これを強制恩寵で手放すことになりましたが、

今でも「これは何故だろう?」と考えることがあるということは、自分と他人との違いを研究しているともいえるので、

「私とは違う」という認識はあるけれども、言葉は同じだけど内容が変わった。

 

やみくもに、「人間性」「精神力」のせいにしなくなったことだけは進歩しています。

そうすると、以前とは感じ方が変化してきました。

脱出したい。救われたい。

命は大事とさももっともな事は聞くが、

私は自分の存在があまりに軽んじられているのを感じていた時期が長かった。

自分もそうだが、ふと周りを見てみると、其処此処にそんな子供がいた。

其処此処にそんな大人がいた。

連鎖が見えるような気持になった時もある。

 

世の中、せつないことが多いなぁと思えば、

脱出できるものならしたいのが人情。

 

楽しければ留まりたいでしょ?

楽しく無いから他所へ行きたい。

 

それが「救い」という言葉になった。

 

楽しむのも楽しまないのも自分なのに、楽しくないことを他人のせいにしたい。または社会のせいにしたい。

根底には「自分はそこには属していないから、傍観者(裁判官)としてジャッジする」という意識が感じられたりするけれど、傍観者でいる間は自分の人生を生きている感覚は味あわないのかも知れない。

 

だからアセンションという言葉に飛びつく気持ちもわからないではない。

その位、皆脱出したがっているのだろう。無意識に救われたいと思っているのかもしれない。

アセンションの正確な意味づけは知らないが、現状ではイヤダと思っていることに気がつかないけれど、美しい言葉には理由があるからのっかりやすい。

 

自分の行動や存在に理由が欲しいということの現れなのかもしれない。

 

 

それは当事者には辛い言葉

その当人が厳しい、キツイ環境に育った場合に

いきなり美しい教えや、法則というものをぶつけるのは控えた方が良いと思う事もある。

 

そんなの嘘だ。

だって見たことがないもの。

それが欲しかったのに自分の周りになかったなら、それを信じろと言われる方も辛い。

そんなのがあると知っていたら言われる前に切望していただろうと思う。

 

教え:みんな仲良く。

実際:ウチの親は仲良くない。

解釈と行動:仲良くして欲しいと神様に願い、両親が喧嘩をしなくなるには私が良い子になれば良いと励み、両親に仲良くして欲しくておどけたり明るくする。重荷になりたくないのでしっかりして親の負担を軽くする。

 

そんなことは本当にしたいことではなく、

望んでいたのは、単純に愛されることだったと思う。

 

しかし自分にはそれがないと感じている子供(またはそのような環境で育った大人)に愛の尊さや、愛を賛美しても

「いったいそりゃなんだい?」という気持ちになったって誰が責められようか。

そんな態度は可愛げが無いと、また子供のせいにするのは簡単だ。

 

そんなことも気がつけないと連鎖に終止符を打てない。

どちらもだ。

 

私だって愛ってなにか知りたいよ。と。

願っても無かったんだよ。手に入らなかったんだ。ということを知るってかなりキツイけど、

気がつかないと手が打てない。

連鎖に終止符を打てない。

 

自分はそうだったけど、この連鎖は終わらせる。というのと

自分はそうだったから、同じ連鎖を踏襲する。というのは全然違うんだけど

書くのは簡単だか実際に負のスパイラルをとめるのは本当に難しい。

あなたは一度でも救われたと感じたことがありますか?

あぁ救われた。と思った経験が1回でもあった方に質問したい。

 

アナタを救ったそれは有り難い教えでしたか?

美しい言葉?

占いの結果?

 

私はこれらが支えになったことはあった。心の支えにした言葉も多いし、保証もないが勝手に励みにした。しかし、救われたというほど体の中から反応したことは無かったんじゃないかと思っている。(思い出したら、また書く)

 

しかし、もう一度あなたに問いたい。

あなたが救われたのは、それよりもっと具体的な体験じゃなかったですか?

 

具体的な誰かの言動。握ってくれた手。

誰かの存在。安心感。

自分の為に使ってくれた時間。話を聞いてくれた誰かの一言。

 

私の場合はやはりそれはヒトを介して届いた。

 

相手は、救おうとしてやったことではなかった事の方が多いと思う。

多くは意図的なナニカよりも、意図せず行っていることが多いような気もする。

 

遠い立派な誰かの言葉よりも、あなたを救ったのは、その時身近にいた人や、なにかしらの関係があった人ではないだろうか? 私のようにペットが大きな位置をしめたという事もある。

 

大きな天啓のような救いも小説の中にはあるが、

そんなドラマティックな大きな事ではなくて、自分にしか気がつけないような小さな段差に救われるという事が私にはあった。

 

確かに、有り難い教えを聞いたら救われる気持ちになることもあるだろうけれど

救われたと感じる体感はこう言った事以外の方が多くないだろうか?

 

救いを感じる事ができると、時間の長短はあれども、よし!もう一度やってみよう、生きてみようというような行動に繋がりやすいような気がするし、

どうせ人間なんて や どうせ社会なんて とひねくれたままでいるのが自分には損なのではないか?と思えてくる。

 

私の体験上、やっぱり損は損なのだろうと思う。それも自分持ちだから気が済むまで続けてみる以外ないのかもしれない。

私は自分が損をしたこともあるし、自分以外の数名に自分の体験を踏まえて、「それに終わりをつげてやり直してはどうか?」と提案したことが数例ある。かなり真剣に伝えたが、私が話すことで行動が変わったという成功例はない。(クライアントの例ではない)

気が済むまで続けてみる以外ないのかもしれない。

気が済んだら行動に変化が現れる時がある。

それは底を打つまでということになるが、それにかかる時間が何十年経とうが、それは当人の人生時間であって、受け止め方はそれぞれだということも体験として理解できるようになってきた。

 

私は誰かを救うという事は考えていないが

まずは話をしっかり聞こうとは思っている。

特に相談業としての立場や役割の時はそうだ。

 

個人的な付き合いの時は、カウンセリングを受けることを薦めることが多い。それは私で無くても良くて、とにかく回復ステップに舵をきって欲しいからだ。

 

 

救われたい時、救いを求めたい時を整理してみた

救われたい時は、出来る限りのことをしたりする。

簡単に書くと、ジタバタする。

 

自分を高みに上げて、しょうもないことでバタバタしている下界をみているような気持になる。

自分も思いっきり同列だとは認めない。認めたくない。

否定しているものに自分が属しているのは許せない。

許せない自分だってしょうもないことでバタバタしている。それには抵抗という名前がついていないだろうか?

 

血の連鎖から逃げられないと愕然とすることがあるが

私が心体カウンセリング™ をして分かったことは、段階を踏めば、ちゃんと逃げられるんである。

逃げるというか、断ち切れる。

DNAの影響も、育った環境の影響も習慣として現れることはあるが、それを呪縛だと感じる心理的ストレスは断ち切れる。(今の私はそれについて呪縛と捉える反応はない)

影響を薄めることも出来る。

私などは、この辺りもきっちり目をそらさず見てしまって、絶望感を感じたこともあったが、

今になり、振り返ってみれば

そんなに絶望しなくても良かったし、ほんと、もっと早く自分の心体カウンセリング™ を受けられるものなら受けたかったわ。(笑)

 

こういったストレス調整の手法を知らない時期だったので、マジ大変だった。(笑)

さとりへの道。 苦しいコース、楽なコース あれこれ。

 

自分が救われたいから、家族や他人を巻き込む人もいる。

溺れる者は、家族や他人を掴む。自分がその掴んだ人を足掛かりに上に登りたい場合は、いろいろ捧げてもあまり有益ではないケースがある。

救われたい側が自分だけのことを考える利己主義者やパーソナリティー障害の場合は、善意で手を差し伸べて共に浮上するつもりが、双方底なし沼になる場合もある。

そんなケースもある。

善意のつもりの依存というケースもあるので一概には言えない。

どう対処するのかは、落ち着いて考える方が良いし、自分の力を過信しない方が良い時もある。

 

私が実際に見たケースでは、「たかり」ということが当たり前で、ヒトが自分に時間、お金、愛情、肉体を奉仕するのが当たり前だという認知を持った方が

「もっと与えてよ。無償の愛ってあたえるもんでしょ? あなたには無償の愛が無いの?」と発言したケースがあった。

愛という言葉を使って、あなたの愛はそれだけですか?と試しつつコントロールするわけだ。

 

別の例では、これと同様な思考がありながらも、口に出さないケースもある。

暗におねだりするような場合は、自分は求めてないが自分より下の相手が捧げたという形にこだわる不思議な勝ち負けゲーム愛好者も確認したことがある。自分が上なんだということを死守したいコントローラーだった。

自分は求めていないというスタイルで、相手に提供させるのが「勝ち」らしい。欲しかったくせにしぶしぶ受け取るというフリをする。

どちらのコントロール欲も常軌を逸していた。

愛(という名の物資、快楽)とは与えられるものであって、自分にはその価値があると思いたいのは分からないではないが、私はあまり個人的に親しくはなりたくない。

 

世の中にはいろいろな考えや好みがあるものである。

そしてこの両方とも、自分の思い通りに与えらえないと癇癪をおこすという大人(年齢的に)であった。

 

勿論というか、カウンセリングなどを受ける気持ちは0%だ。

 

こういったタイプの周りにも、救われない人が隠れていて、悪循環が起こっている。

善意の人も、共依存者も、自覚できるメンタル不全が起きるまでは気がつけないケースも多い。ハマってしまうと周りの声が耳に入らなくなったり、「私が救ってあげなくちゃ」「私ならわかってあげられる」とのめり込むこともある。

 

だから、私は個人的に「与えなさい」という発言はしないし、教えも伝えない。

それがどんなケースなのかわかるまでは、うっかりしたことは言えないという体験があるからだ。例えそれが美しい教えでも。

 

何に対して与えて良いのか、どんなケースは与えてはいけないのかの判断が自分で出来ず、ただ「立派な人が与えなさい」というからその教えを守って与えてしまうケースがある。

 

もし、あなたの「救われない」「救われたい」という想いが、このようなケースに該当するのなら、その人物と距離を置くことをお薦めしたい。

与え続けていたら罪悪感などを感じていつか変わってくれるというのはどうやら難しいようだ。

与え続けて起こることは、肥大化ではないかと思うケースがあったからだ。

 

信仰的にはどうだかわからないが、心理カウンセリング的には「与える」という教えを守るのを良しとするには、なかなか難しいケースがあるのではないかと考えている。

自分の心を整理する

ですから、自分がなにを救われないと思うのかを、整理しておく方が良いし、

救われない思いがあるのなら心体カウンセリング™ に来て欲しい。

 

そのままにしておく利点は特にない。

少しずつでも自分を楽にして行って欲しい。

 

最後に

非常に長くなりました。

実は今回、何度も、書いては消し、消しては書いて、途中どうまとめたら良いのか分からなくなったりしました。

 

おそらく、救われない感が苦しい方も多いと思います。

放置して、時間が解決するまで待つという方法もありますが、

時間が解決するという意味の中には、対処する方法を知るまで時間がかかったということも含まれていないでしょうか?

 

今、対処方法を試してみるチャンスが来たと思って、どうぞ心体カウンセリング™ を利用してください。

セルフケアを覚えることが先でも構いません。

 

苦しさから脱出する方法として頼りになります。

 

ホームページをもっと利用する方法

EBISUさん

コラムを読んで下さる方から、「あぁ あの記事がよかったからもう一度読みたい!と思っても、沢山記事があって探せない(困)」と聞いたよ。

 

心体カウンセラー 武田美紀

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または個人カウンセリングや各種講座の際に色々ご質問、ご感想をお伺いいたします。(^^)

 

(2019/03/10)

 

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