しばらくコラムをアップするのに時間が空きました。

以前はこのペースでも全く普通でしたが、ある時期どんどん書いたので、感覚はまるで「全然書いていない」というものでした。

今回の記事はもう1か月近く前にアップする予定でしたが、以前記事に書いたように「欲」というものが減ったようで、「書きたい」という欲もそれに伴った反応を表しました。

こんな時は、職業作家でしたら、書きたいも書きたくないもないんだよ。書くんだよ。とプレッシャーを感じるのかもしれませんね。

 

また、私は検索順位が上がるようなキーワードを入れた戦略的な記事を書いているわけでは無いんです。そういう意味ではこのコラムのほとんどはマニアックなのかも知れませんし、脳内で熟成した方が書きやすい。独り学問というようなことをコツコツ行っているだけなのでしょうね。

 

さて本題に入ります。

「心の治療の真実はどこにあるのか?」について お1人の意見

このタイトルとなった理由はこちらです。

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

この本はキネシオロジー東京の森田先生がFacebookでご紹介された書籍です。

 

野の医者とはなにを指しているのだろう? という興味から手に取りました。

読んでみたら沖縄が殆どの舞台でした

私はつい最近、「沖縄のセラピー業界に合わない」という言葉を耳にしました。沖縄のヒーリング業界という呼び方もできるでしょうか?

18年ほど沖縄にいますが、考えたこともなく、存在も知らないというか、意識したことも無かったので、「ほほ~~~」と思いながらお話を聞きました。

その言葉を聞いてしばらくしてこの書籍を読みましたので、「なるほど、これが沖縄のセラピー業界か」と理解しました。

 

また、書籍で取り上げれている「野の医者」と呼ばれている皆様の状態は決して沖縄の特徴ではない。というのが私の個人的な見解です。

これについては、精神医学の言葉を借りると、脳の反応が近い近代はどんどん変わっていて、統合失調症の特徴だったようなことが、軽微になったり、もっと細部に疾患が認識されたり、統合失調症ではなくアスペルガー症候群という診断が増えたりという変革期を迎えているそうです。

精神科という業界と言いますか、医療現場でも疾患人数について目に見えて変化しているというご意見も聞きました。

(これに関してはまた別のコラムを書く準備をしています。)

 

ですから、日本人だけなのか、世界的なのかはわかりませんが。この書籍で「野の医者」の1つの特徴である ある種のスピリチュアル、共感能力というような資質は沖縄の特徴ではなくて、日本?世界?に当たり前に増えている。

 

ということを踏まえずにはいられないので、書きました。

 

もう1つ踏まえたいのは、お1人の臨床心理士さんがご自身の考えや体験を書かれた書籍だということです。

そして、紹介されているセラピー手法を私は沖縄に居ますが受けたことはありません。セラピー業界というものはビジネス目線で「有る」と思えばある。人間の心の探求が主な活動の場合は業界というものは無いと思えば無いのでしょうか?

何とも言えません。

私がメモをしたこと

業界云々は忘れて、筆者の「心の治療とはなにか?」という探求の経過はセラピーをされる方は一度読んでみても良いと思っています。

 

  • 特に、真実とはなんだ?という事はそれぞれが考えてみても良い。いや、一度は是非通るべきではないかと思えるし
  • 転移性治癒という事。依存と信頼は違うのではないか?
  • 劇的に回復したと語るが、表面上が変わったに過ぎないのでは?という疑問
  • 自己洗脳
  • 躁状態
  • 筆者の考えられた、「健康とはなんだ?」ということの考察
  • そもそも何が治療なのか?

 

鵜呑みにすることを推奨していません。

鵜呑みにすることは学問と呼ばないようです。研究してみるのなら

「本質的に常識を疑い自分自身を疑うものだ」-野の医者は笑うより抜粋

汝自身を知れ。ということはこういう事を指すそうです。ソクラテスも行った事とのこと。

 

ですから、鵜呑みではなく、ご自分で考えをまとめていくのに、そのきっかけになるのではないか?というご提案です。

私が脳内リミックスと書いたものはブリコラージュという名称がありました

なんにもない。怒りも喜びもこだわりも欲求も。

この記事の中で脳内リミックスについて書いていますが、これは「プリコラージュ」という言葉でこの書籍で登場しました。

 

心理と受け取っているものも言葉は同じでも理解、解釈は違います。

疑似科学、ポップ心理学について私も時々辛口になりますが、私の中にもこれらは浸透しているんですよね。

その様な事も気がつくことも大切。

 

疑似科学、ポップ心理学が将来本流になるかもしれないし、この中に真実が無いという事も言いきれない。疑似科学、ポップ心理学の知識を自分の幅としてプリコラージュ、脳内リミックスを創り上げていくことがもう当たり前に広がっています。

 

マネは出来ても、自分の言葉で語ることができない。

自分のしていることについて、それこそ「汝自分自身を知る」って多分本当にハードルが高いことなのかもしれません。

 

自分と世界が繋がっている。という考え方が「魔術的な考え方」という価値観もあるんです。自分の当たり前は通じないこともあることは認知しておいた方が良いし、癒しということは、絶対的な方法などなく、「癒しが起きた」という事だけを冷静にみることも多分ハードルが高い。

やっぱり理由も付けたいし、ストーリーを創りたいし、ミラクルと思いたいという欲求があるから。

そういう心理がある。ということを、そんなの科学じゃない!と仇を打つかのように叩きつぶすこともないし、それは間違っている。としつこく食いつくのもやっぱりそれをする側の心理だな~ と思うようになりました。

私自身が少々辛口な時があるものですから、自分の考えは考えとして持ってはいるけど、それを行動に移すのか? どうするのか? ということは配慮が必要だと肝に命じることにします。

 

私が辛口になりがちなのが、良い所どりした「宗教もどき(エセという意味です)」「信念のない教え」による洗脳的なことです。

以前出先でオウム真理教の受刑者の「死刑執行」という最終決定をニュースで見ました。勝手な予想ですが多分最初は信仰とか修行ということに純粋さや信念があったのではないかと思っています。信念があったとしても、その信念が歪まない方が良かったこともある。

 

認識してもしなくても人間は大きく変わる時があるんです。

良い意味でも悪い意味でもね。

少しずつの変化が長期的にみたら大きく変わったり、突発的に大きな変化をしたり。

「思い込み」が強いと、軌道修正が必要な時に自分では気がつきにくい。

(ミラクル!と捉えたいものには気がつきやすいようだけれど。)

 

私がコラムでご紹介する本はそれを読んで、自分が見てきたこと、体験してきたことなどに思いをはせたものですが、この本も頭が回転しました。

 

この書籍を読んで、セラピーやヒーリングについて書かれていてもやっぱり「宗教もどき(エセという意味です)」「信念のない教え」ということもやっぱり頭をよぎったし、セラピーとかヒーリングという名前でそれらと根本的に同じものを流布する側、悩んでいる方に影響を与える側にもなりかねないという注意点は心に持っておきたい。気をつけたい。

 

だから、私は「教え」というような事は心体カウンセリング™ とは出来るだけ切り離したいと考えています。

 

理想化してすがっているだけでは成長しない。それは自分の空っぽを生む

前の文章から引き続きにもなりますが、

この小見出しの言葉も書籍からの引用です。

 

的を得た言葉です。

 

私もコラムで書きました。行動が空っぽを生むのか、埋まらないから理想にすがるのかはどっちが先かはわかりませんが、そういった脳のクセもあるし、脳のクセが関係なくても「理想化」という言葉があるくらいですから人間の当たり前の反応の1つなのでしょう。

女性に起きる「憑依と解離と、自分の中心不在」をアスペルガー症候群と理解する可能性。

このほかにも、関連するコラムを幾つか書いています。

コラム一覧でご確認ください。

コラム集

 

この書籍の内容から推察するに

理想化して、その理想化した相手とのやり取りで躁状態を生み、「治った」と思う事もあるということですよね。

治ったという思い込みで治ることもある。治ったと思っていたらぶり返すこともある。

ぶり返すってことは「治ったと思った事自体が表面的だった」ということかも。ぶり返すってことは理想化した相手を信頼していたわけじゃなくて依存だったかも。

 

というような事を可能性として考慮することも出来ますが、これをまるで法則のように断言することは出来ない。

 

ケースバイケースだから。

 

軽い躁状態

私もメンタルの調子が(これまでの人生時間の中で ここ数年)良いものですから、自分で「これは健康というラインではなくて躁状態なのかな?」という視点を一時持ちました。

 

自分自身での見立てでは、躁状態というフワッと感や、どこからこの元気が湧いてくるのだろう?というような特異性は無いんですね。

ただ、特に取り立てて何もない一日の終わり、眠る前に、あぁ生まれてきて幸せだ。ラッキーだった。と思えたり、目立つラッキーなどなくても、「今この瞬間が幸せだと感じられて嬉しい」という極めて地味なものであって特別な出来事と連結しているものとは違うんですね。

 

なんにも無くなっちゃった。という感覚についてはこのページの上部にリンクを貼っている記事で読んで頂けますが、なんにもなくなった後、しばらく経った今、特に取り立てて何もない一日の終わり、眠る前に、あぁ生まれてきて幸せだ。ラッキーだった。と思えたり、目立つラッキーなどなくても、「今この瞬間が幸せだと感じられて嬉しい」という感覚が戻っています。

 

人もうらやむような大花火・功績を打ち上げる欲とかでもなく、それが無いからと言って凹むわけでもない。

そうですね、何かが無いからと言って凹むことが無いことが幸せですね。

 

軽い躁状態というのはどの位続くんでしょうね。

その先一生?

それならば、もうそういう仕様の脳になったということでしょうね。

 

書籍の中の登場人物は、他人の一言を聞いて躁状態から覚めた。というような展開もあったように思いますが、何かでやっぱり「目が覚める」というような反応が起きるのは躁状態だったと言っても良いのかもしれません。

 

ヒトは自分の人生を過ごしていきます。

生き方はそれぞれ。

何度も書く言葉です。

 

生き方を考える時は粘り強さが必要みたいですね。

 

真実の探求。ということも、どうぞ粘り強く取り組んでみてください。

私もそうします。(^^)

 

(2018/08/16)

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