アスペルガー、自閉という記事を書く準備が整っていますが、ちょっと長くなり複数回にわたるかもしれませんので、その前に今回の記事をアップします。

 

真理がわかっても、具体的なHappyにならないヒト

ショッキングな小見出しですね。(笑)

オノレナニ様じゃ。と自分でも突っ込みが入ります。

 

この小見出しの理由は、「真理さえ得れば、私は幸せ」という幸せの条件としての「真理」が可能性として在りそうだと思ったのと、おそらく「真理」というものにミラクルを求めていそうだなと感じたからです。

 

とどのつまり、救いを求めている。

 

気持ちは痛いほどわかります。私も20代はまだそれを求めていましたから。

その模様は以前コラムに書きました。

リンクを貼る前に読み直しましたら、我ながらなかなかわかりやすく書けていました。宜しければご一読ください。

悟りと言うイメージに救いを求めるとき

我慢が苦しい時に読んでください。諦めるの本来の意味とは?

 

真理をわかっても、その後も人生は続きます。

真理を理解するのが「双六のあがり」ではないんですよね。

ですからきっと、真理をわかっても、変わらず続く人生があるという事実から受けるショックの方が大きくて、Happyに繋がらない方もいると思うんです。「えっ!劇的に変わるんじゃないの?!」というちょっとした他力本願のような。

 

そもそも、「真理をわかること=Happy」なのですか?

色々な信仰がありますが、そちらではどうなっていますか?

 

リターンを求めているのか?

真理を得たい願望には「ご褒美をください」「リターンがあるはずだ」という気持ちも見え隠れします。

 

以前の私が「悟ったら生き易いくなるんじゃないか?」「楽になるんじゃないか?」と思ったこれらもリターンを求めていましたでしょ?

 

そのリターンがどうのこうのという事から一旦外れて、純粋な状態に帰れるのなら帰ってみてはいかがでしょうか?

ダンパさん

純粋な状態ってナニ?

 

心体カウンセラー 武田美紀

自分を把握するという事。とも言えるでしょうか?
どうして そのリターンが欲しいのか? と着目してみることでもあるような気がします。

 

証明はできませんが、四半世紀ほど前に「それは悟りという状態だよ」という体感をしたことがありました。真実は知りません。

これについてもコラムを書きましたが、コラムに書いていないのは、「それは悟りという状態だよ」ということを経験したのちも(自分の体験に「悟り」(かもしれないだけですが)という名前があるとは知らなかったんです)。

その体験の後も、「悟り」を求めておりましたが、そのうち求めるのをやめました。

「生きているうちは悟りなど開けない」という事を悟った。と当時よく言ってました。(笑)

パラドックスですが、多分現実ってこんなものかも。

悟りについて考えるのをやめて、仏教などについて考えるのも止めたら、知らぬ間に体験していた

 

リターンを求めるのをやめたんです。

それは、ひょっとして「悟り」と呼ばれることがある、とある体感をした後に。それが何か気づかないとこんなもんです。

 

時間的な捉え方、時間軸って時々面白い流れかたをするもんですね。

 

信仰についての教科書などに精通しておりませんが、もし教科書があるとしても、教科書通りにはいかないことも多いんでしょうね。

という、どこまでも勝手な 個人的な意見です。

 

教えなんていらない

乱暴なのは分かっていますが、ちょっと我慢して先を読んでください。

生きることは「苦」という考え方はナンセンス。

私がわたしになれる本 (ワニ文庫)

 

この表紙になる前の古い本を買って読んだことを綺麗サッパリ忘れていましたが、随分と私の血と肉になっているのでびっくりです。

 

この中に、いろいろな信仰(と書いてあったか、教えと書いてあったか忘れました。名古屋に本があり、今沖縄の手元にありません)で

この世は「苦」だ。と言うが、その考え方はナンセンス

と書いてありました。

 

私はこの本が随分血と肉になっていましたが、その昔読んだ後も「苦を乗り切るためのMy修行」をせっせと行っていました。

ナンセンスなどというご意見は当時はピンとこなかった。記憶にないもの。

 

私が言いたいのは、「この世が『苦』と教える方もいる」「それはナンセンスという方もいる」という価値観の多様性があるよ。という事だけです。

そのあと、自分がどう生きていくのか まずはやってみること。だというだけのことです。

 

私はこれに答えは出せません。

真理を説くようなナニモノでもないから。

そう言う事を教える、伝えるのが心体カウンセリング™ では無いから。

 

しかし、あんなに「生きるのが苦しい」「深海の貝になりたい」などと思っていたけれど、その後、「生きているだけで幸せ」というような日々を体験しますと、鵜呑みはいかんな。と思うのは確かです。

その考え方は間違っているぞ!と信仰やら教えを広める方に反旗を翻すつもりも全く無い。それは恐れ多い。しかし、鵜呑みにする前にちょっと考えても良いよね。とは思ってる。

 

自称 元修行好き → やめた。転向しました。

わざわざ「苦」を創りだしていた。

大変な場所には、自ら飛び込んでいった。

辛い目にあうと、「これは修行だ」と自分に言い聞かせていましたが、やめたんですね。

 

ある意味、こんなことをするのは自信家だったのかもしれない。修行は高尚だとか思っていた。

私ならなんとかできる。とかとんだ勘違いもして。

確かに何とかなることもありますが、それが全て「佳き事」かは怪しいな。と気がつきました。

口や手を出し過ぎて、自立を阻むのも共依存の特性です。

 

与えることが善き事ではない時だって有るんじゃないかな。与えられていた側を「奪う人」に育ててしまうことだってある。奪う人になってしまった当人と関わりたいという気持ちが失せて来るときがあります。自分がそのように育ててしまった一因があってもね。

今の私の場合は、奪う人にさせてしまう前に、そういう意味での境界線を提示して、ゴタゴタして妙なことになるのを防げたらいいなと思っています。その方が会った時にサッパリとしていられると思っています。

 

こんな風に、鵜呑みではなくて、ケースバイケースという事が大切な時もあるよな。なんてことを私の思い込みフィルターを外して広がった視野で、「教え」や「善かれ」も一度考え直したこともありました。

 

なにより、私がそれまでの自己流の修行をやめたのは

人生を生きているだけで充分だ。
日々の中に修行のエッセンスが入っているから、わざわざ私の小さな脳みそで修行もどきを創りださなくて良し。
その自己流修行こそ、「今」を見ていないことに繋がるな。

と思ったからです。

 

My小さな脳みそも中々良いことに気がつきましたわ(笑)

地に足をつけて、日々を大切に生きるという事の方が難問だということですね。

 

 

悟りに保証なし

リターンがあるのかどうかも知らないけれど、保証だって同じです。

 

悟ったことで得る保証ってあります?

 

例えば多幸感がその先一生続くとか?

「ヒトより抜きん出たで賞」というメダルも無いですよ。

そういう、何かと比べるものでもないと思いますが、どうでしょうね?

 

感じ方だってバリエーションがあるようですよ。

なんにもなくなっちゃった後 只今のところ(解脱説をどう考える?)

 

ちなみに、私の体験が「悟り」だとか「解脱」というものの体験だという保証はありません。証明も出来ない。一生この状態をそれだけに注力して維持し続ける気もないし、注力して続くもんなの?と疑問がある。とお話した方がいたんですが、「証明など無いんだと思うよ」という言葉の後に「その体感はただの通過点だと思う」とおっしゃっていました。

私も「通過点」説に賛成です。

これをキープしようとか、何度も体験したいとなると、多分もう変わっちゃうんだと思う。それは執着から発生してるから。

 

なるようにしかならないですよ。

なんでもコントロールしなくていいだろうし

なんでもコントロールできなくていいだろうし。

 

廃人というか、生きるのはやめないけど、何かをするのをやめちゃうケースがあるという事をコラムの中で書きましたが、

一方、ずっとこれにかかりっきりになっちゃうケースもあるそうです。ハマったんですね。脳のタイプによっては充分そうなるでしょうね。想像するに難くありません。

そういう状態のことを「犬が自分の尻尾を追いかけるように夢中になる」と表現されていました。完全なる意味のウロボロスの蛇ではなく、出口のないグルグル状態のウロボロスの蛇とも言えますね。

 

あのスペシャルな体験(楽しいこと?)をもう一度! もう一度! と耽溺しちゃうんですね。

それはそれで大変ですが、私はこれに関してはそういう欲求が無くて良かったです。

 

棚ぼた的に捉えているし、それがなんと2回も(◎_◎) という有り難い人生経験だと思っています。

 

体感を何度も再体験することにトライもしません。

多分、自分で何とかなることじゃない。と諦観しているんでしょう。

あの体験を味が無くなるまでシガンでも、もうその中身は変わっちゃってて、自分で創りだすだけだろうな。それには体験として同じ純粋さは無いんだろうな。となんだかこんなところだけやけに悟ったことを考えてます。

 

「物事が見え過ぎて絶望しかない。」というセリフ

冒頭に書いた

「アスペルガー、自閉という記事を書く準備が整っています」という中で、お薦めの書籍と、その書籍の中にもある私自身の感覚を書くつもりでいます。

 

そもそも、私の生きづらさの中には小見出しのタイトルのような気持がありました。

 

物事が見え過ぎて絶望しかない。

 

これは借りてきたDVDの中で紹介されていた映画の予告編でのセリフです。タイトルはメモしなかったけれど、「見え過ぎさん」だかなんだかさんが主人公なのかな?

 

私は、私なりに感じる

物事が見え過ぎて絶望しかない。

と折り合いをつけることができましたので、今日現在は絶望とは縁遠いのですが、このように感じる方は総合心体カウンセリング™ を最低数回ご体験下さい。

 

共感覚が発達している方もシンドイ時はシンドイと思います。

 

悩み・苦しさから脱出するため心体双方向から集中的にケアするコース

 

もちろん、心体カウンセリング™ の合間にはセルフケアも行ってください。

アイテム不要! 自分でチャクラを整えて、心、脳、お顔もスッキリ

 

見え過ぎているものに、あなた自身が反応をするわけなので、あなたのケアをどうしても行って欲しい。

 

  • 浅い眠りから深い眠りへ。
  • 緊張からリラックスへ
  • イライラから穏やかへ
  • 苦しみから朗らかへ

 

 

お金があっても、人気があっても、空虚感、虚無感は埋まらないのですけれど、それを生むあなたの心のケアは取り組んでみる価値はあります。

 

私は絶望感、虚無感、空虚感ということと一線を画すことが今は出来ておりますので、ぜひあなたにも人生のひと時でもこれらに囚われない時間を過ごす確率を上げて欲しいです。総合心体カウンセリング™ とセルフケアを利用して。

 

一時の状態、体験、現象というだけなのかも

「悟り」も「解脱」を体験したような気持ちになっても、そこにリターンも保証もない、一時の体験・体感でしかないのかも知れません。

 

これが人生の目的ですか?

そうなら、一生懸命、それに向けて修行(ですか?)をされることが目的のための行動という理にかなっている。

 

私は、今の生の生ききる。という方針に変わりましたので、今を生きております。今を生きようと心にとめています。

 

見えないジャンルの「タイトル」が欲しいわけでもない。タイトルホルダーを目指しているわけでもない。

 

前世も来世もお陰様?で興味が薄いものですから、記憶のしっかりある今のうちに自分の人生を体感していきたいと思っています。

昔のように自分以外の何かになることを目指すわけではなくて、自分が今持っているリソースを有り難く使っていく。

 

あるいは、lightなスピリチュアル系の思想・技術に見えても、違和感を感じるものは自分がそれができても、得意でも行わない。リソースがあっても使わない。

 

こんな方針でいきたいな。と思っている今日です。

(2018/06/20)

 

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