今日は4話目です。

1話目 自分のこだわり(価値観)の気づき方~ブッダ編

2話目 なんにもない。怒りも喜びもこだわりも欲求も。

3話目 過去や現在の体験とのリンク。読めない「無所有所」「非想非非想処」も含めて。

 

途端に心理色、脳反応についての記載が増す回になるかと思います。今回で一区切りになるか、もう1話続くのかは書いてみないとわからないので、今日もお付き合いのほど宜しくお願いいたします。

このシリーズが終わったら、今度はトラウマと、その前から書きますねと宣言していた「引き寄せの法則で言われる『心地よい状態になる』について書く予定をしています。

振り返り

なんにもなくなっちゃったとき、一切が消失して無?空?になった時間が訪れた時に、私が今回幾つかに分けて書いてきたようなわだかまりや引っ掛かりも含め、「もうどうでもいい。」という気持ちすら起きないほどなんにもなくなっちゃったんですよね。だから、書くという行動を選択する必要もなくなりました。

ナニカを書くという時に、今回のこれも含めて、読んだらいい気分のしない方もいるかもしれない。それをわざわざ? という気持ちもあるんですね。それでも、自分のアウトプットをする。という意味でやはり書くんですが、今回、なんにもなくなっちゃった時間があのまま続いていたら、アウトプットもいらない、インプットもいらない。だって、思考もいらないんだから。

私がお陰様でいつからかその状態になっていて、いつまで続くかわからないけれど。と思っていた、生きてるだけで幸せ。という状態も、あの時感じなくなりました。ですから、幸せだと感じることもない、ただ在るだけ。或るだけ。

この時間が訪れる前は、自分のアホをまだまだ再発見するという自分自身を「アホな自分が愛おしい」という気持ちにもなりました。「アホなりに頑張っとる。よくやってるよ。」「これからも引き続きアホなんだろうけどね。(笑)」と。

そんな人間らしさを感じる反応点が消える体感に、

  • 傍観者としてただ眺めているだけのような脳内風景もあるし、
  • まざまざと自分の内側で起きているという感覚があるというバリエーションがあるんだね。

へぇ~という事も書きました。

 

そうですね、脳で捉えている感覚と、体で捉えている感覚の違いでしょうか。

興味深いものです。

自分の考えを言葉にしてくれているものと出会って良かった

今までもありました。

本であり、人であり、映画であり、ドラマであり、内部対話でもあった「思考の輪郭をシャープに浮き立たせてくれる有り難い刺激」が。

今はもう、この本は読了し、次のモノを手にしていますが、自分の経験をもってしてこれらが一層沁みるという出会いがあるんですね。

私が前回書いた、迷宮のどん詰まりで自分が崩壊する。という体験について、この小説の中にわかりやすく文章化されているところがありましたからご紹介します。

教団X (集英社文庫)

心理学でいうと自我の確立。立て直し。

文章を沢山書くので、以前どこに書いたか忘れましたが、河合隼雄先生の著書の中に「自我の確立には、非常に危ない精神状態を伴う。(伴う事もある。という表現だったのかどうかは忘れました)」とあり、それを読んだ私は、「その通り」と思うわけです。

それが上手くハマらないと、精神の崩壊に繋がるということがあるよ。という事実がある。

これがやたらめったら「良い言葉集」の教えを鵜呑みにして、「善かれ」「良かれ」を一貫性なく混ぜ込んで、そのリミックスしたスライド集を自我を創ろうとすることの元として推奨する側(と、私が感じるに過ぎない)に対しての私が反応する「気に入らない理由」でもあったのですが、今はやっぱり私も受け止め方が違うんですね。(私のように、自分で勝手にやって、Own riskなケースはしょうがない)

 

それも1つの人生だな。と思うようになりました。今までも思っていた。けれど、もっと深く思う様になった。この先ももっと深く思うようになるのかも知れない。

 

推奨する側も、それを受け入れる側も。双方の了解があって成り立っている関係なのだから。

両者という関係性はあっても、それぞれが結局 Own riskなんだよね。

 

私には「こすも」に書いたような「危ないよ」と言いたくなるジャンルのことがあったんです。リンクを貼った記事を書いた時にも、それすらも手放すという意識でしたし、それはどんどん進み、なんにもなくなっちゃった時間には欠片もなかった。

これらに反応している、自分自身の視点が狭かったからだということを体感しました。

視点という枠さえ取っ払ったら、もうなんにもないんだから。

視点をもつのは、自意識でしょう? 視点を持っている自分という存在という表現が近いのかな?

 

ですから、意識が無ければ、生きている感じがしないと受け止めるのかもね。という展開もわかりやすかった。

 

解離していて自分の意識が無いという事と、無や空ということは、ひょっとして「生きている感じがしない」「実感がわかない」という似た表現になるのかもしれないけれど、解離の場合は脳の一部機能停止反応、神経回路の繋がり方の癖があるという脳科学の説明が登場するとこの2つの違いが分かりやすいでしょうか。

 

自分が反応している、自分自身の視点・価値観がその反応をひき起こしていることを体感して、それなら自我の修正をしていくという行動が選択できるんだけど、これが難しい。

脳の反応も、それを自我だと認識するのが難しい。

 

私も最近のコラムに、人間が硬くなっちゃう。思考と脳が硬い。と書きましたが、この小説の中では

硬くなった人々には声が届かない

と表現されていました。

一度信じたら何を聞いても何を読んでも絶対に信じたものを否定しない。

それは自分を否定することになるから。

これまでの自分を疑い、新しく生まれかわる勇気を持つことが出来る人間など多くない。

ー小説「教団X」」より抜粋

 

ここですよね。

悩みや、ストレス、それこそ煩悩、人生ということの大きな肝は。

 

小説の中では、

自分の考えなど彼らは欲していない。

自分の考えとして思い込めればそれでいい。

と続きます。

 

私は生きるリミックス状態ですから、「これは私には当てはまらない」と書く勇気はありません。私の中に自分だけで創り上げた考えなどあるだろうか?と思っているからです。生まれてこの方、文明もない中たった一人で生きてみたことが無いのに。

 

となると、「自分」というものがはなはだ怪しくなってきますね(笑)

デカルトの「我思う故に我在り」についても、小説の中で木っ端みじんにした登場人物のくだりがあります。私の脳内リミックスでは「我思う、故に我在り」は大切な考えとして有効になっていますから、木っ端微塵になっているのを読んでおりましたら、宗教にしても、教えにしても、まとまった生きる知恵としての考え方にしても、とにかく多岐に渡るんだよ!と妙な納得をしました。

おそらく、いろんな宗教で、「自分」「我」についていろんな定義があるんだと思います。仏教は宗教じゃないという言葉はさておき、おそらく仏教にもこの辺りの考えかたがあったと記憶していますので、迷宮にはいってどん詰まりにならない程度に勉強してみても面白いでしょうね。(しかしどうぞお気をつけて。)

 

これまでの自分を疑い、新しく生まれかわる勇気を持つことが出来る人間など多くない。

これが、自我の立て直しだと思う。

私は良かれと思っていた自分の考えが、まったく間違っていたと認めざる負えなくなって「どん詰まり」になりました。勇気をもって否定したわけではなくて、にっちもさっちも行かなくなってそうするしかなかっただけです。

急カーブを描いて生き方を変えないと、それは崩壊に繋がり、自分を構成しなおすということ自体が綱渡りなんだということを体験しました。このRのキツイ急カーブを曲がり損ねても崩壊。

その時の胸中は、行くも地獄、帰るも地獄。に似たものがありました。

 

私はお陰様で現在過去最高に調子が良いですが、一歩?数ミリ?数ミクロン?間違えばこうじゃなかった。

 

脳の中のなんらかのチカラのおかげか、精神力か、生命力? 神様のおかげか、父と母から受け継いだDNAのおかげなのか、無事生還できたことは我が人生の中のとても大きな僥倖だと今でも思っています。

 

最近分かったことは、こういった体験の最中に、脳にトラウマと言われる状態を引き起こし、それが完治?回復?していないと、同じトラウマを何度も再体験するという脳が出来上がるという事でした。

同じ痛い目を繰り返すことを脳が欲するという反応があるとのこと。

それを起こすことで、「生」を確認しているような反応があるとうことでした。

 

私が心体カウンセリング™ で、その方のストレスケアに焦点を当てているのはこんな背景があります。「教え」は私はその方の選択に任せます。それによって矛盾が起きたりして苦しい時は、そのストレスをケアする。

 

人間の精神は強いけれど、気づき方によっては酷く弱る時があります。危うい場面を引き起こすことがあるということを体験したうえで、「回復」という視点を大切にしたいんです。変わることが大切なこともありますが、それでもそれに対して勇気がでないということはある。

トラウマと呼ばれる脳の状態になっている方に、「やれ」「行動しろ」と精神論を押し付けても、全然的外れなんですね。それは押し付ける側が「言いたいことを言う」「アドバイスをする」という快楽に浸っているだけのことだってある。

トラウマという脳の状態以外の方にも「自我」ということを捉えにくい脳のタイプもある。

 

とことんこういった脳の反応や先述の「自分の考えを持ちたくない、持てない」という人間としての傾向を理解してくると、

「自分の考えを持ちたくない方に押し売りはしたくないけれど、危ないよとは言いたくなっていた私は一種の葛藤を抱えていました。」

こんな葛藤すらも的外れだと気がつく。

 

葛藤が起こらなくなる程、感覚が広がるという体験をその後するとは想像だにしていなかったですが。

自分じゃないモノ・ナニカになろうとするのも脳の反応?

私には「自分じゃないモノ・ナニカになろうとする」事に対する意見があり、これについて書くことも多いですが(自分もそれを経験したことがあり、目指す方向性がまったく違う事に気がつくというその後の経験もあるので)、そもそも「自分なんてものは無いんだ。」という考え方もある。

この小説の中の登場人物によると、生き方の微調整ですら自分を否定することになるので「厭だ」と反応するようですね。

ですから、以前、「人生を生きていきながら軌道修正したらいい」というような事も書いたことがありますが、この登場人物のご意見によると微調整・軌道修正なんていう考え方は無いんでしょう。一度信じたらそれを変えないんだから。

それが出来る人のことを勇気があると書いてあったとご紹介しましたが、それすらも精神論ですか? 人間の脳の反応として、それを執り行えるかどうか?なんだろうと今は考えています。精神の弱さではなくて、脳の反応。

その脳は、心体カウンセリング™ でも行う、トップダウンとボトムアップのケアで回復、変化していくということが紹介されていました。(この話は回を改めてご紹介します)

 

闘争か、逃避か、凍結か、という反応を起こす脳が人口を大きな数で占める集団であり、自我に抵触するような価値観を内部で構築するとういことを恐怖、危険と認知する反応がその大きな集団の脳には起こるんだと思います。ミラーニューロンもそれで繋がってるというような事かも知れないし、共感力なども数が多い方に共感する確率が高いでしょ?

多分これはIQとかは関係ないと思う。関係あるとしたらEQ、SQ、HQのようなものに現れる類のことでしょうね。

リミックスはフェイクだと反応していたが

前回、リミックスされたものに反応していた私のことを書きました。

それをフェイクだと自分の中でレッテルを貼るケースがあったからです。

 

しかし、自分をはじめ、世の中のほとんどのことはリミックスされたものです。文化がそのように成長してきましたよね。学問もそう。「創る」という行為も脳内リミックスでしょ?

 

ですから、私の反応は、他のモノにはしないのに、特定のものに反応していただけ。ただこれだけのシンプルな状態だったわけです。

反応するのはいつも自分。

反応する自分は、過去の記憶に反応している。

 

シンプルですね。

アホほどシンプル。

そして、世の中の出来事のバリエーションに目を奪われ、心を奪われ、脳が反応を起こしてシンプルな事をしばしば忘れるということですか。

 

人間という生き物の愛らしい特徴ですね。

 

その愛らしい人間には、脳が装備されていて、自分以外の脳のすべてを理解することは難しいでしょう。捉え方も感覚も反応もケースバイケースだからね。となると、やっぱり自分の人生しか生きられない。

 

自分の人生という感覚が薄くても、全然感じられなくても、大切に過ごしてみて欲しいと思っています。

どうやら自分は、自分を痛めつけてしまいがちだ。と気づいた方で、サポートが必要だと思われた方は心体カウンセリング™ をご利用ください。

 

なんにもなくなっちゃった あの時に、「コラムだって書かなくていいじゃん」と思ったんですが、ひょっとして私の書いたものがどなたかの「自分の考えを言葉にしてくれているものと出会って良かった」とお役に立つこともあるかな?と今は思っています。

いつかは、アウトプットする。書くのが楽しい。という感覚が変化する日が来るかもね。と思っていたけれど、案外早かったし、こんな風に訪れるの?(◎_◎)とちょっとした驚きもありましたが、私のなにかは変わりました。

 

以前よりも淡々と書いているような感じです。

 

意味と理由が欲しい

今現在気付きとして自覚しているのは、

私達は意味が欲しいのだ。という習性です。

 

ただ或るだけで、意味なんてない。理由なんていらない。というのは多分面白くないし、それだけでは辛いんでしょう。

 

生きていると感じる意味が欲しい。理由が欲しい。

自分が正しいと思う意味が欲しい。理由が欲しい。

 

ですから、より一層、人はそれぞれの生き方をしていることが見えてきたような気持になりました。

 

これが人間として生まれてきたときに、特性として備えられたものなんだろうと。

 

タイトルを小説から引用した「これまでの自分を疑い、新しく生まれかわる勇気を持つ」にしたんですが、推奨しているわけではないんです。ちょっと難題のようだけどそういう選択肢も1つあるよ。という感じです。

どちらも状態でもサポートが要る時は教えて下さい。

 

生きていることが素晴らしい。というところからスタートすると、物事の見えかたも変わってくるね。という事を思考だけでなく、感覚として、体感として感じられるようになってくると、今まで反応していた外部の出来事を見ても、反応していた自分に気がついても、今の状態でオールOK! 変わるという選択をするのもオールOK!というような態度でいる時間が長くなってきました。

 

それぞれが「生」を生きているだけ。

大変長くなりました。

次回に持ち越すよりも今回で一度〆られるようなところまで書いてみたらやはりちょっと長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

当面はコラムを書き続けます。(^^)

(2018/05/16)

 

コラム一覧へ移動