私は読もう読もうと思いつつ、なかなか読了に至らない書籍がどんどん増えています。

そして、お薦め本としてあちこちで紹介されていた本をようやく読んで、私の内面に大きな変化が起こったことについてコラムを書きます。

多分長くなるので、書けた分からアップしていきますね。

どんな本がこのコラムを書くきっかけになったのか?

教団X (集英社文庫)

書籍の画僧にもタイトルにもAmazonへのリンクが貼ってあります。

 

これは小説なのですが、私がこの本を読み始めてグイグイと引き込まれたのは、特に前半。この小説の中で「ブッダ」について書かれている部分でした。

 

それまでは、自分が「信仰」「宗教」「教え」にこだわりがある事を自覚していて、自分の引っ掛かりに反応が起こるとそういったことを文章にしてこれまでも書きました。

こだわりがある事は自覚しているけど、引っ掛かりについて明確に把握できていないもどかしさがあったのです。それが延び延びになっていたこの書籍を読むことによって自分の事がわかりました。

 

なにより、この本は私には読みやすかった。

それは文中の「」(かっこ)の使い方が、私の感性に心地よかったから。

とくに仏教について

私が日本人で、仏教の教えが何かは知らないのに、その周辺情報のようなものはDNAに入っているように感じます。それは神道、道教との違いも分かっていないごちゃまぜでも。

ですから、もともとそれについて知らないという自覚のある西洋から届いた信仰や宗教については湧きおこらないような類の「なんで?」という疑問が、こだわりとなって登場するようなんですね。

 

ですから、今回はブッダについて小説の中に触れられていたので、仏教ということになるのでしょう。

 

ブッダさんでしたか? 私の言う事を鵜呑みにするな。というようなことをおっしゃったのは。私の場合のこだわりはその教えや内容ではなくて、「伝わり方」「伝え方」だということでした。

教えや内容については、鵜呑みにするほどの知識もないのですが、この小説の登場人物の講話?は、私にはとても良かった。それは登場人物の言葉として語られていたからだと思う。

これが仏教だ!という「教え」ではなくて、どうやらこのこのようだ。という語り口がね。

 

ではどうして私がここに引っかかりを持ったり、こだわったりするのかを書いていきます。

それってホント?

私は、わたしなりに「それってホント?」と思う事があります。多い方かも知れない。鵜呑みとは逆だという感じです。

年上とか、名声とか、先生とか、役職とかもあまり関係なくて、好きも嫌いあまり影響しない。嫌いでも「至極ごもっとも」と思えば信じる。

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。という状態とはちょっと違っているかもしれない。(全くしないということは無い。やっぱり後から気づくという事があるし、無意識のバイアスは無限にあるだろうから)

 

これらと同じように、宗教ということもそのような傾向にあるようで、理解できてないことを鵜呑みにしにくい。「宗教」とか「仏教」とか「立派な方の教え」とか「あのブッダが!」という事では鵜呑みにできない。

 

ほら! 凄いでしょ?

これが正しいんだよ! と言われても、頭に浮かぶのは「それってホント?」という思い。

 

それって、本当にブッダの趣旨と一致しているの?ということ。

歴史のある物語や誰かの言葉って、そのまま伝わりますか?

現在の今さっきあったことも正しく(ファクトがあるとして)伝わらないことも多いのに、そんな昔のことって本人以外が正しく伝えられるの? という「宗教」とも「教え」とも全然違うところが私の反応点なんですね。(笑)

 

この「教団X」の中の登場人物は、小説の中で

ブッダさん自体は言葉を残さなかった。キリストのケースと同じです。弟子達が、彼を信奉する人達が、後の世に彼の言葉を伝えたのです。

と言っていました。

 

これが本当かどうかすらわからないけれど、私にはこうやって伝えらえる方が余程すんなり頭に入ってきました。

 

私は度々、「これは教えじゃない。生きる智慧です。」と言っていても、伝える側が「教え」だと思っていたら、それはもう教えとして伝えてる事になるんじゃないの?と思うのです。と書きますが、そういうことです。

 

わかりづらいですかね。

 

この小説のなかでは

ブッダさんは言葉に何も残さずに、「相手によって、機縁に応じ、相手に応じ、異なった説き方をした。」

とあったのですが、これは特定の何かに沿った言葉ではなくて、この方(ブッダ)の中から出てくる、その場に応じた言葉だろうし、

多分そもそもが、「教えて下さい」という「求め」が最初にありきではないかと思うんです。

最初に教えありきではないような気がするんですね。

 

ですから、最初に教えありき。という時点で、また、あなたの〇〇には仏教が良いです。〇〇教が良いです。という時点で、それは「教え」という名前を借りた、伝える側が気持ちいいだけのアドバイスでしかないんじゃないかなと。

 

それなら、まるでそれが正解かのように伝えられるより、「私はこう考えている」という自覚を持っていただいている方が受け入れやすい。

それを求めた人に対して、「立派な人の言葉ですよ」とか「長い歴史の教えですよ」ということは、ある意味アドバイスを求めている方の要求に答えているという関係になりますし、自分が伝えることの背景にあるものについての説明になると思いますが、

求められていない時に、アドバイスがしたいが故の「立派な人の言葉ですよ」とか「長い歴史の教えですよ」という見えない盾など使わずとも良いのではないか?と。

 

それは煩悩ですよね?

 

ここまで来たときに、私も同じことをしているな~と気がついたわけです。出来るだけ体験したことや、理解したことを伝えたい、書きたいとは思っていますが、やっぱり皆無になるのは難しいだろうと自覚しています。

なんで執着するの?

私が読んだものは、教典ではないし、専門書でもないけれど、

また1つ、「そりゃそうだ」と私には良かった記述がありました。

 

仮に、私が「ねぇ その教えってホントにブッダさんが言ったの? 今あなたが伝えている同じ意味で?」と思ったとしましょうか。

有名な「三毒」という言葉はブッダさんが実際に説いた時代より後に登場したという仮定があったとします。

私は仏教的悟りをひらいておりませんので、これらにこだわるわけですが、仏教的な教えを完全に理解している方は、善や悪にこだわったり、愛という言葉を崇拝することも、悪を憎んだりもしないはずですよね?

 

それをブッダさんが言おうが、言ってなかろうが、そう言う事にこだわる必要はない、執着はいらないというのもブッダさんの教えではないのでしょうか?

 

仏教というか、信仰はもういらない。ということになるはずですよね?

 

正しい教えを追求すること自体が執着になりますよね? というような考え方が

 

揚げ足取りなのか

へそ曲がりなのか

無知の極みなのか

自分に正直なのか

良い所をついているのか

 

もう全く分からないのですが、でも良いんです。

 

先日書籍を見直したら、忘れていましたが、他の方が薦めていた分かりやすい仏教の本も何冊も持っていました。その後薦めて頂いた仏教系の本が他にもあるのですが、それはまだ読めていないです。

教えについて知りたかったら、この先の長い人生でゆっくり学んでいけばいいのですが、私はその前に今回書いたようなこだわりや「それホント?」という気持ちがありました。

正解ではなくて、今現在の自分の中で、あぁそうか!と理解出来たことを喜んでおり、非常にスッキリしています。

 

なにより、自分がなにが引っかかっていたのか? を理解できたので、もうこの先こだわらなくて良さそうです。面白いですよね。正解を知ったわけでもないのにこだわりが無くなることがあるんですよね。それが自己理解の影響の深い部分ではないかと考えています。

 

これが私にとって、1つの答えでもあるからです。

そして、私はアメブロに書いたように、心境が大きく変わりました。

今はなんだかすっかり変わっています。

 

 

まだまだ書ききれていないので、コラムはあと2つほど書くことになると思います。

 

(2018/05/13)

 

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