心と身体も含めて「心理学」と考える。それは「心体の語りを聴くこと」

私は心体カウンセリング™ という言葉を使います。

やっている内容は、セラピーとも言えるし、ヒーリングとも言えるようだとわかってきました。ではなぜ心体カウンセリング™ という言葉に決めたのかが、この言葉を随分使ってから分かりました。

1つは、コラム(https://kinesiology.wp-x.jp/top/column/)でも書いているのですが、セラピーという言葉や、ヒーリングという言葉には、微妙な特殊性のようなイメージがあるような気がしたからです。

「ちょっと話を聞いてほしい。」「少しでも楽になるんだろうか?」と考えた時に、ようやく日本でもカウンセリングという言葉が当たり前になってきて耳になじみがあるし、「語りを第3者が聴く」ということには胸の内の閉塞感の解放作用もある様に思います。

それには、カウンセリングという呼称が適しているような気がしたんですね。

 

ひたすら傾聴する場合もあるし、対話療法という手法のこともあります。

クライアントが、絶対に他人に言いたくない場合は体の反応だけを確認してストレス調整をすることもありましたが、「胸の内を吐露する」ということの良い面もあることは確かだと思います。

強制はしません。

写真はイメージ写真です。
当カウンセリングルームの写真ではありません。

その後わかったこと

ところが、最近になって、

「聴く」ということが、いかに多岐に渡っているのかということに気がつきました。

  • 身体の声
  • 語り
  • 言外にあること(多くのことを含みます)

私はこのような事を、クライアントの語りの中で聴いている・伺っているのだということがここに書けるほどはっきりしてきました。

書籍などを読んでも色々感じる事があるのですが、同じ書籍を読んでも受け止め方は人それぞれです。文章の全てを暗記していても、内容を理解しているとは限らないように、そこから何を「聴きとるのか?」「受け止めるのか?」という事が個性と思います。

 

以前、薦めて頂いた本がありました。薦めるという事は「良い」というお気持ちがあったと思います。そして素直に読みました。書いてある事はわかるのですが、私には「良い」というより「ちょっと残酷」というように感じた箇所があったんですね。

それはその本の中核をなす箇所でした。

巷に沢山ある「宇宙の法則」というようなことの1つの考え方。

 

私は、世の中に「良き本」として広く伝わっているその書籍を、それを賛辞する多くの方とはちょっと違う「語りの聴き方」「読み方」をしたようです。

進めて頂いた方には正直にそれをフィードバックさせて頂きました。「薦めて貰った方にこんなことを伝えるのは申し訳ない」という事ではなく、そういった事を正直にお伝えできる関係性だったと勝手に考えてのことでした。

 

そして、時間が経ち、全く別の方に「私が残酷に感じた内容」について話した際に、その著者がそのあと(他界される前)に「自分の伝えていたことは間違っていた」と書いた本があるよ。と教えてもらいました。

まだ私はそれを読んでいないので、なにをどのように書いておられるのかは不明ですが、その話だけをお聞きしながら「間違ってるって思ったんだ・・・」と思いました。

 

私の中で、それが正しかったとか、間違っていたということが大きな問題ではなく、「その(私が感じた)残酷性というようなことを、ご本人と共有したのかもしれない」という事でした。

 

絶対的な法則がある。というお話でしたが、その1つは? 他のことも?訂正されたのでしょうか。

私はこの方以外にも、世界中に広まっている法則を絶対的なものとしてお伝えになっていた方が。他界される前に「法則は無い」(言葉は違います)とおっしゃったのを存じ上げています。

 

信じる心が絶対的ではなかったとか、解釈はいくらでもできますが、

私はあえてそこではなくて、「理由なんかない」という視点も大切ではないかと思っています。

 

「理由がない方が残酷だ」ということも世の中にはあると思います。

原因と結果の法則があるほうが納得しやすい。とか。

 

あなたはどうですか?

 

私がお聴きしているのは「あなたの語り」です

本当の私って何だろう?

有名な本があります。

 ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

多くの教えがありますが、これは1つの考え方が提示されています。

こういった本(とても素晴らしい児童書も多く、名作も多々あります)は、大人になってからも何度か読むと、「聴き方」「受け取り方」がいかに変化していくのかが如実にわかります。

それは専門書や啓発本やスピリチュアリティな本では得にくいものだと思います。

 

人間の人生はそれぞれの人生の物語。

物語を読まない、読めないという感覚が私にはわからなくて申し訳ないのですが、あなたの人生に「あなた」をはじめ多くのヒトが登場し、私はその物語をお聴きしています。

 

そこには、あなたの身体も登場しています。

意識していても、無意識でも、あなたが人生で何かを感じた時、感動したり、悔しかったり、泣いたり、理不尽で怒りを感じた時、不安、恐怖を感じたときも、あなたの身体はそこにありました。

あなたの「体」も人生には存在しています

あなたは、人格とか個性というときに、「体」まで思い浮かべますか?

あなたが色々感じたり、考えたりしているときには、体もそこにはあるんです。

自分の記憶がない時も、体はそこにあります。

 

とても読みやすい本を多く書かれた河合隼雄先生も、「体を抜きには考えられない。」とおっしゃっていますが、しかし「腰痛の時はこれ」「この病気の時はこんな性格に由来する」などとなにか決まりや法則のように伝わるのは危惧を抱く。と書かれていまして、私も同意見なので、著作の中でこの言葉を見たときは「私もそうです」と思ったものです。

 

統計のようなものには、多くのデータが示す範囲に属さないデータがありますものね。

ですから、そのご本人「あなた」の物語をお聴きするのです。

決まったカテゴリーにジャンル分けすることではなくて。

 

このような「○○病の原因は○○」という書籍ではなく、河合隼雄氏が著作の中で「心と体の関係性」について、

ココにも書かれているように。とご紹介されているのか下の本です。(リンクが貼ってあります)

 

体は全部知っている (文春文庫)

分類が好きな脳の方は、は? と思う内容かもしれません。

私も、最近、専門書のようなものを読むことが多かったので、最初は「これ?」と思いました。

しかし読み進むうちに、「これだから専門書にはない全体的な関わり、物語を通して心と体が感じられるのでは?」と思いました。

 

私は吉本ばななさんの熱心な読者ではありませんが、こりゃお見事。だからずっと作家で、人気があるのだ。と思う個所がありました。

 

教えっているのかな?

理不尽だろうが、嫌いだろうが、成長する時に「ルール」「教え」が大切だと思います。

それを理不尽と感じる。嫌だと感じる。という事は自由です。

しかし、社会で生活する時にやはりあった方が良いルールはある。教えもあるでしょう。

交通ルールとかなかったら、めちゃくちゃだろうし、あっても滅茶苦茶ってあるし。

成長していく時に、その経験をどのように自分に取り込んでいくのか?に限るのではないでしょうか?

3歳の時と、18歳と、30歳、60歳では違ってくることだってあるでしょう。

あなたの価値観について、「今のあなた」にフィットしていないと生きづらさを感じる事があるようです。

 

これは教えじゃないよ。生きる知恵だよ。と言われていても

伝える側が「教えだ」と思っていたら、それができていないと「なぜ?」と反応するし

聴く側が「教えだ」と思っていたら、自我を滅殺して、思考を停止して完全に明け渡してしまうことだってある。

 

それが人間同士の反応だろうと思うのです。

 

言葉というものは便利だけど、ちょっとズルく使われてしまう時もある。

綺麗な言葉だって例外じゃない。

私も含めて、本人の自覚のないことなど幾らでもあります。

 

私が心体カウンセリング™ でお聴きしたいのは、あなたの心と体、それ以外が語る旋律です。

世の中の常識や、正義、良い人間の条件が聴きたいわけではなく、かえって、それらにあなたがどんな思いをお持ちなのかをお聴きしたいのです。

「ルール」も「教え」も無くていいです。

 

あなたという人格と体の話をしようではありませんか。

 

私が「聴く」ということの、その一部の話

まだこの記事の続きがあるのですが、

「湧いてくる言葉」https://cosmos358.amebaownd.com/posts/3924139

この記事を書いた後に思い出したことがありました。

思い出したのか、後付けしたのか、意味づけしたのかは正直曖昧です。

 

それは、小学生の頃に本を読んでいて(その当時の本というのは、主に物語と伝記。漫画もあり)、

自分の体験した現実の出来事について、「あ!そうか、あの時の人間はこのような出来事があるとこんな気持ちになるんだ」「ふむふむ」と思ったんですね。

 

子どもですから、はっきり「気持ち」とか「出来事」などという認識はありません。ただ認識はなくても「ヒトの反応」という意識はあったように思います。

 

リンクを貼ったような「湧いてくる言葉」というのは、スピリチュアルな意味というより、多くのパターンを蓄積した私の脳内データバンクから抽出しているような気がします。

この時の言葉というのは、先ほど書いた

自分の体験した現実の出来事について、「あ!そうか、あの時の人間はこのような出来事があるとこんな気持ちになるんだ」「ふむふむ」と思ったんですね。

という体験などが土台になっているのかもしれません。

 

これも意味のない、理由付けかもしれませんが(笑)

 

そう、理由なんかない。のかもしれない。

正解は分かりませんが、それでいい。

 

私は心体カウンセリング™ や人生で、正解を明らかにしたいわけではないから。

 

ああかもしれない、こうかもしれない。という書き方は伝わらないから、自分は「言いきる」「断言する」と書いている書籍の中に、「ああかもしれない、こうかもしれない。」と書いてありました。

一度見たら忘れない。と言っている方が忘れていることを私は知っています。

こんなことは当たり前にあることで、それが人間で、バランスを取っている証拠ではないかと思っています。

そういう意味でも「絶対」ってあるのかな? と。

 

ヒト様の話を聴くということや、書いてある事を読むということは深いですね。

わかったようなつもりになったらアカンなとよく自分を振り返ります。

 

私は多くのことを見ていないだろうし、聞いていないだろうし、忘れている。

それで良いけれど、心体カウンセリング™ のその場には集中する。

 

絶対。という考え方を脇に置く。

 

私が断言できることは、「真理があるのかどうかは、今は知らない。わかる日が来るのかどうかも知らない。」という事をはじめ沢山あります。(笑)

 

 

思考も大切だけれど、体も大切。心も大切。

体の反応も大切にしていきたい。

 

それらの声、語りを聴くカウンセリング、「心体カウンセリング™ 」という名前を大切にしていきたい。

 

心体カウンセラー™ 武田美紀

(2018/03/28)

 

 

 

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