前回の記事のこの一文について、いつか書くかもしれない。と思っていたけれど、

私のコラムは別に正解を書くことに重きを置いているわけでは無く、

悩める皆さんの多くの心・精神・脳の中で「おそらく、こんなことが起きているのじゃないかな?」と思う事を私なりに体験を踏まえて書いており、それが解決のヒントや気付きになると良いな。と思っているという基本姿勢を思い出しました。

 

ですから、先送りせずに、今日現在のところを出すことにしました。

この先もっと上手にお伝え出来たり、考えが進展するかも知れませんので、それはそれで楽しみにしてください。

 

長年の私のひっかかり

それは、こちらの部分です。

それはまた別の「私はOFFをONにしたから、考えている」という思い込み?を生むという可能性についてはどうだろう?

(バランス調整をする際に、また別のロジックを加えことについては、私が以前から抵抗があるのですが、それもいつか書くかも知れませんが、〇〇をしたら◇◇になる。というのは真実の時もあるし、期待の反映だったりもします)

コラム「気合と精神力、素直さではカバーしきれない、あなたが気がつけない脳のクセ」より抜粋

特に別のロジックを加えることへの私の個人的な意見です。

 

別のロジックを加えるとは何を指しているのかご説明

以前から、度々書いてはいるんですが、今回はそれよりはもう少し具体的なことを書けるような気がしています。なんだかここに来るまでにも「ようやく」感が私にはあります。

ポイントは、何かを説明しようとするときに、事例で説明するのではなく、ロジックを用いるところが微妙なんだと思う。

その方法でも、お見事!という解説力がある時もあるんだろうけど、今回はそこにあえて触れない。(直ぐに事例を思い出せない)

 

私が気になるケースはそこに「誰かの教え」「誰かのロジック」を用いる時です。

主(しゅ)曰く。とか、ブッダがおっしゃるには。とか私が知らない方々も含めたら星の数ほど沢山いらっしゃるので、総称して「誰か」と今回書かせて頂きます。

 

それを学んで、後世へ伝えるお仕事の方や、個人的に研究されている方もいる。←主に信仰に関わることになりますが。

その際、他人に何かを伝える際に、ご自分が話す論理展開がその方の敬愛する誰かの言葉・ロジックだけで完結される方もいらっしゃいますね。

本当にお好きなんだな。と伝わってきますし、それ自体はそこまで研究・今日されるって凄いと素直に思います。

が、ある種の境界線が不在で

その教えと同化したいのかな? その発祥者と同じになりたいのかな? というような事ですと

それも「自分以外のものになろうとしている」ことになっちゃいませんか?

 

世の中にはいろんな教えがあるので、「私と一緒になりなさい」という教えを忠実に守っているのなら話は別です。

それは「同化したい」という意識と行動が一致している。

「自分とはなんだ?」をその教えの発祥者と同化したら同じ感覚を掴めるのではないか?と発祥者と同じ修行などをされる場合も別だと思います。

目的と行動が一致している。

 

「自分で考えよう」(これも誰かの考えでしょうが)「自分で考えることが大切だ」と伝えたい場合に、

立派な誰かの教えを完全コピーしたら世の中の真理が分かるだろうというようなやり方は意識と行動がミスマッチしているんじゃないかな? どうでしょうか?

 

あなたは何処にいますか?

あなたは何処にいますか?

 

私は個々、クライエントの生きやすさに焦点あてたいので

元々誰かになりたい方の 何とも表現しずらい説得力の無さに反応していることがある。

情報は豊富だけど、伝えるご当人の「考え」がない。

 

心体カウンセラー 武田美紀

こんなことを書けば書くほど、私も自分の首がギュウギュウと締まっていくんだけど、自分の為にも書き続けることにする。(-_-)

 

ご当人、クライエントがその教えを学びたいのなら話は別なんです。

キリスト教徒になることも出来るし、仏門に入ることもできるし、他の信仰も誰かの「教え」もそう。

個人的に研究することもできるし、それが好きなヒトが集まっての勉強会も多分とっても楽しいと思う。

 

例えば、悩める方が瀬戸内寂聴の法話?講話?を聞きに行かれるときには

僧侶のお話を聴く。という共通の理解があると思う。それすらも無く、瀬戸内寂聴さんの話を聞きたくてもOK。

相手のタイトルはともかく、「自分で考えにいく」というよりも、「教え・教え的考え方を聞かせて欲しい」という受容と供給が前提にあると思う。

 

余談です

瀬戸内寂聴さんは、正にこれこそ賛否両論がつきない方ですが、こんなに多くの皆さんが反応を引き起こしたくなる要素があるのでしょうね。

否定的な多くの方の「正義感」が反応をされていると勝手にお見受けしています。数年前、知人との世間話の際に、「食事、SEXなど厳しい本来の戒律?を守っていない僧侶は認めない」という意見をお聞きしたことがあります。だから僧侶が結婚など許されない(多分許さないってことだと思う)というご意見です。

当の本人は僧侶ではありませんし、自分なりの戒律があるのかも知りませんが、その年齢なりに煩悩というモノがあり、僧侶に関して一家言あるけれどそれに準じたナニカをしているようにはお見受けしなかった。

(まぁそうでしょうね。(俺、僧侶じゃないから戒律守る必要なんて無いしってことでしょう。))

 

この意見をかなり強めに長時間主張していたのでお聞きしましたが言うのは勝手です。私は仕組み・戒律をよく知らないので(そこが気になるんだね)とだけ思って傾聴しておりました。

正義感って常識的な場合と、常識だという後ろ盾・隠れ蓑を利用して攻撃したいという欲求の場合もある。嫉妬を正義感とすり替え・勘違いする場合もある。認めたく無いっていう人間の心理もある。逆に自分を認めて欲しいって時もある。

 

この件に関しては私はノープランです。昔のダイビングインストラクター仲間にお寺のお嬢さんと結婚した男性もいたし、私の本家のお墓のあるエリアのお寺さんは奥様が僧侶で、息子さんがいらっしゃる。特に違和感を感じたことがないからです。知らないこと(戒律)は見えないという現象でしょう。私程度の「知ってる」では違和感がないけれど、そもそも論をご存知の方は気になるのかもしれない。

 

例に挙げさせて頂いた瀬戸内寂聴さんのお話が聞きやすいのは、ご自分の言葉と体験が説法?講話?ににじみ出ていらっしゃるからじゃないかとも感じます。

情報提供でもなく、「教え」とは?を大上段に構えたようにも聞こえず、ブレもしない、チカラも入っていないように見えるというのが受け止めやすい理由ではないだろうか?

 

過去の参考コラム

2つとも同じ内容を書いているのですが、表現を変えています。

2つとも読んで頂けると、一層 投影やシャドウの意味が解って頂けると思います。

「独り相撲論」には、怒り編、悲しみ編、逃避編とバリエーションは様々です。

自分の心を見る・自分と向きあう

被害者意識を持つだけ損。世界は広いこと思い出して!

 

私の今回のトピックに関して私の中の正義感が反応しているともいえますが、自覚できているのは、「なにが引っかかっていると感じているのかを明らかにできた」ということと「このような出来事は世の中に点在どころが、ほとんどの事柄と関連しているという隠し絵が以前よりもっとはっきりした」ということです。

知らないことは見えないらしいので。

 

煙に巻かれる?

私がそれを学びたいのならそれでいいのだけれど、

目的が違っていた場合、別の誰かの教え・ロジック展開をその「答え」のように提供されるのはまるで煙に巻かれているような気がする。

ロジックのすり替えが起きているように反応をしてしまう。

答えは単純。私の中の整合性とあわないからだと思う。そう、反応しているのは私なので。

 

私は個々、クライエントの生きやすさのサポートを相談業の柱にしている。

心理・心体カウンセリング™ 、セラピーをする上で、別の誰かの教え・ロジックの解説をすることは、

ご相談の内容・お悩みについて取り扱って行こうという目的が、「他のロジック」について考えていこうというように(いつの間にか)変わってしまうんじゃないかと思っています。

だからそれを意識できる範囲ではしないように気をつけているつもりです。断言できなくて申し訳ないのですが、そのつもりで居たいということは柱にしている。

 

それをすると、目の前のクライエントは見えなくなり、その誰かの教えが主体になってくる。

あなたの症状は教え的には「〇〇」と判定はされていますよ。と。

 

焦点のボヤケ化?

思考の拡散化?

スタート地点の忘却化?

こんなことが起きてやしないだろうか?

 

なにより厄介なのは

そういうことを聞くと、「わかったような気持になる」ことです。

誰かのロジックには元々答えがあるわけで、誰かの答えを聞いただけなのに、「わかったような気持になる」。

その答え有りきのロジックについて考え、その答えの意味が分かったようなつもりになる。

最初からある答えに辿り着く・合わせるべく思考修正?認知修正しただけなのでは?と思う私がおかしいのだろうか?

はじめからある「型」に合わせていったというような表現は近いだろうか?

 

その「型」に合わせたら解決しましたか?

解決したのなら良かったですね!と心から言いたい。

 

これじゃなきゃ。という正解はない。

 

ただ、「自分で考えようよ」というのなら、もう少し書き加えたい。

「考える」って自分で答えらしきものを構築していく行為のことを言わないの?

判断というものが「考える」に含まれていくとしたら、ロジックに沿った答えを出そうというのも考えるのなかの判断にカウントするの?

 

日頃言語化しないこのような事を、思考する前に私の場合は身体的に反応が起きているようだ。

 

ですから、「ダレソレはこのように教えています」という伝え方は「そうなんだ」とそのまま受け止めて聞いていますし、

以前もコラムでご紹介しましたが、「仏教ではそれについてどういう考え方をするのですか?」という問いに明確に答いた際にはキッパリとした気持ち良さを感じました。お訊きしたいことを、真摯に勉強されている方が答えてくださるという事は深く深く納得しています。その答えに他のロジックを用いていないからです。

 

あなたの悩みの答えはこれです。とそれについて誰かの教えや宗教的思想を用いられるのは、情報提供ではあるかもしれないが、しかし、自分の言葉で話していない。と感じるのだろうと思う。

日本語には「受け売り」という言葉がある。私は以前のコラムで「安易な横流し」というお里が知れる言葉をチョイスしたが(-_-)

 

それは貴方ではない「誰か」の思考展開ですよね?と。

 

それは情報を整理しただけのことだと思う。

 

それでも良いじゃん。と感じる時と、それは無いんじゃないかな?という明確な違いを感じるケース

個々・クライエントがこれ(誰かのロジック展開を教えて)を求めているのなら見事にマッチングするのだけれど

「自分で考えてみよう」という解説にこれ(誰かのロジック展開)を用いられると、

「これは誰が考えたことですか? あなたですか?」

「いいえ、〇〇さんの教えです」、(「そうです」と答える方も、大いなるものがそう言っているから。宇宙の法則だから。と答えが返ってきたりするが、その場合はまた一味違う要素が加わっている)

「ということは、あなたの考えはどのようなものですか?」

と聞きたくなるのが人情である。

 

その時に、考えていないと答えられない。し

その質問で初めて考えることがスタートするという事もある。

「自分で考えてみよう」と言うのは簡単だし、「自分で考える」と言葉に出したって、実際に「考える」ってこんな風に中々自動的にはいかないのだと思う。

 

誰かのロジックがとことん身に沁み込んだ方が、それを踏まえた上で自分の言葉で話されているのなら私も「この方は思想はこうなんだ」と感じるのでしょうが、「自分で考えてみよう」という解説の際にそのまま誰かのロジック・教えによるとこれだ。とだけで終わってしまうのは、単純なカテゴリー分けをする心理テストや占い、○○術と根本が似ているような気がする。

多分それは、情報提供であって、それを行う本人はあまり考えていないのかもしれないと思わせるなにかがある。

 

どの位前だろうか? 私の違和感を博識のキネシオロジー仲間Aさんに話したら、Aさんは「心理は心理で調整できない」というような意見を聞かせてくれた。(本当の正しい言葉は失念した。これだったと思うが「心理は心理で解決できない」だったかもしれない。)

私の違和感話に耳を傾けてくれて、すぐにこの答えが返ってきたので、おそらく彼女もすでに考えたことがある案件だったのかもしれない。私の言いたいことや違和感を彼女はかなり正確に受け取ってくれたのだが、この「心理は心理で調整できない」を私なりに解説しようとすると、なんと私が自分の言葉に変換できなかった。違和感は伝えられても、自分の中にまだそれが宙ぶらりんだったからね。

彼女は私の言いたいことを捉えてくれた。という共有感はあるのに。

この体験が私の脳内に、未解決の案件として記憶されて、そして月日が経ち、ようやく今回言葉にできそうだ。そもそもこの記事を書こうとおもった出発点は彼女の言葉に影響を受けている自覚があるし、もう一人記憶にクッキリあって忘れないのは、別のキネシオロジー仲間Bさんが自分の違和感を表現する際に「自分の言葉で話していない」と聞かせてくれた。

だから私が文章化した「自分の言葉で話していない」事象については、Bさんは私よりもっともっと早くから気がついていた。凄いんである。私は彼女たちに受けた影響をひっくるめて昇華させているともいえる。

やっぱり凄い人は凄い。立場とか、名声とか、収入とか、学歴とか、仕事とか、資格というタイトルなど無関係。年齢も関係ない。(彼女たちのこういった背景をそもそも私は知らないし、年齢も知らない)

 

話を戻すと、Aさんも「悩み相談に、『教え』を適応するのは、1つの考え方や『型』の提示にはなるけど、本人の内部発ではない」というような事が言いたかったんではないだろうか?と今は以前より言葉にできるようになった。

 

「ところで、そもそもの私の悩みについてはどうなったんですか?」というキョトン感 (´・ω・`) がご本人に起こる前に「なんだかわかった気がする」というところまでジャンプしてしまう。段階を経ていない事に気がつけない不思議なトリックが起きている時がある。

 

ロジックがジャンプしても、それが正しいように感じることがあって、最近の記事に別の例の「感情をバランス調整した=考えられるようになる」というロジック展開が気になったということについて書いた。

気合と精神力、素直さではカバーしきれない、あなたが気がつけない脳のクセ

 

ロジック展開のジャンプは私のコラムにもきっとあるだろう。きっとどころか、たっぷりあるだろう。

私が匿名の書き込みサイトに取り上げられるほど大物になったら、目も当てられないくらいボロカスだろう(笑)

 

最後に

長くなったのでそろそろ終わります。

 

最後に鼬の最後っ屁のような質問を提示して終わりたい。

 

「気づき」と「考える」の関係性ってなんでしょうね? もしくは、この2つの違いは?

どなたの意見だったか失念してしまったが、「考えるというのは、無から有を生み出すことだ」というものがあった。それってどういう事でしょうか?

 

直ぐにネットで検索するのではなくて、あなたはどう考えるのかアウトプットしてみてください。(^^)

ちなみに、私はこの2つは「未解決案件BOX。」に入っています。

そして、将来的な答え合わせのようなものも予定しておりませんので、ご自分の思想へと取り入れてください。

 

考えることと気づくってこととはまた違うのかも知れないけれど、ナニカを考えたから気づくってことはあると思う。私が人に恵まれていると感じる1つのパターンですが、今回ご登場いただいた

Aさん、Bさん以外にも「凄い! (◎_◎)」意見と気づきを教えてくれた知人・友人達が沢山いる。みんなには本当に感謝している。しきれないほど感謝している。

 

そして、この記事を先送りしなくて良かったとつくづく感じたのは、この文章をまとめるにあたって、この後書く予定の本丸について、どう書いたら伝わりやすいだろうか?というアイデアが湧いてきました。

 

ホームページ内 記事の検索の仕方です

EBISUさん

コラムを読んで下さる方から、「あぁ あの記事がよかったからもう一度読みたい!と思っても、沢山記事があって探せない(困)」と聞いたよ。

 

心体カウンセラー 武田美紀

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(2018/11/20)

 

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